自己紹介

吉田絵美

ハイ、こんにちは、こんばんわ?
ヒカリモノ大好き☆
キラピカ☆ガラスアートクラブ部長の
吉田絵美ですv

今回は部長の人生の略歴をぱらぱらっとね、
軽く公表しちゃおうかと思います。

生まれは古都、育ちは新都!

私、吉田絵美はかれこれ約30年前、
母は京都育ち、父は神戸育ち、
2人の出会いはなぜか中国旅行!?
だなんて言う運命のカップルの二人の間から
おんぎゃーあ、と元気いっぱいには
泣け ない くらいの未熟児で生まれました。

生まれてすぐさま保育器へGo☆

いやあ覚えていませんが、
当時の両親と病院関係者の方、
生き延びさせてくださり
大変ありがとうございました!!

0歳児時代のね、動画がね、
ビデオで残ってるんですが。
泣いてる途中で力尽きてるんですよね(;^ω^)
体力無さすぎだろう!!と今見ても思いますが
現在の私も体力は人並み以下。
生まれた時からインドア派を気取ってる系女児
なんていう、親からすれば困ったなあ(´・ω・`)
な体質でこの世に参上いたしました。

そんな感じで最初は保育器スタートでしたが
とにかくよく食べる子でしたので、
その後すくすく身長伸ばし。
学校の帰り道とか体育とかで骨を2回折った程度で
五体満足で三十路手前まで生きてこれましたので
どうぞご安心を!(・∀・)

さてはて、私の親はサラリーマンな転勤族。
生まれは母の実家、古都京都!
しかし当時の父の職場は新都横浜!
古都京都の記憶なんて高校以降にしかありません。
そして新都横浜育ち、なんて気取りたくとも
横浜に居たのは 幼稚園年中さんまで!
そこから小4の冬までを千葉、
高1の春までを富山、
そして現在に至るまでを大阪で過ごしました。

だから出身は?と聞かれると
アイム・フロム・じゃぱーん!!
片言返信になるんですよね(;^ω^)

しかしこの、
自力で新幹線にも乗れない年齢の時の
県を超えた引っ越し体験
は今の私にとっても大きな出来事でございます。

普通と言う言葉のあいまいさに衝撃を受けた話

悩む

県を超えた引っ越し、
それは国内でありながらものすごく分厚い

カルチャーの壁

を超えてゆくのと同じこと。
小旅行ではなく引っ越しだからこそ
この壁は私にとって本当に分厚かったんです。

いいですか、
語尾が じゃんじゃん!と気取る横浜弁
語尾が ぜ、だが、やちゃ、と濁る富山弁、
もはやイントネーションそのものがお笑いの大阪弁、
これが同じ日本語と受け止めるには
子どもの身には大きな違和感があると思いません!?

1つ例を出しましょう。
「ありがとうございます」
と口に出して言ってみてください。
横浜は「り」に音の山が来ます。
富山は「とう」に音の山が来るんです。
大阪に至っては「おおきに!」ですよ?
もうこの一単語だけで「普通」が崩れるの、
わかります?(;^ω^)

特に4月1日、桜咲く千葉県から雪舞う富山県へ
引っ越した日の衝撃ときたら(◎_◎;)!!

 

~トンネルの向こうは雪国でした~

をリアル体験というのは、なかなかね!
小学生でする人っていないと思いますね!

あげれば他にも山ほどカルチャーショック!!
はあるのですが、
とにかくこの引っ越しから私は

「普通と言うボーダーは存在しない

と言うことを学びました。

日本人は、「普通」と言う単語が 異様に好きですけれども、
「普通」と言うのは所属する団体で
七変化するものなんですね。
おかげさまで
学生時代から浮いてる浮いてると
クラスのボスとかカリスマとか結構な人数に
バッシングを受けたりもしましたが

グローバルになれない人だなー(´・ω・`)

くらいに受け止めることができました。

「普通」の女の子なんてどこにもいない!!

これは大変大事な事実だと私は思います。

今学校でいじめられててしんどいっていう
そこの君!
筋金入りの隅っこアラサー女子は
君が人生を投げてしまわないことを
心から祈っているよ!
今つらくっても
学校を生きて卒業したら解放されるから!
小学校は6年間、中学校高校は3年間!
大学は部活を変えたら大体何とかなるよ!
気の合う人とだけお付き合いしたらよろしい!
人と会え会えうるさいこと言う人多いけど!
ぼっちでも!おうちでも!

人生を輝かせ休日を充実させる方法は

このキラピカ☆ガラスアートクラブを含め

い く ら で も あ る からね!

だから引きこもってでもやり過ごして
次に「所属したい団体」を見つけるんだぞ!!
私は「所属したい団体」を作っている最中だが!

趣味は人生の、要だ!!( ✧Д✧) カッ!!

……つい熱くなってしまいました。
御免なさいませ<m(__)m>

察せられる通り
部長絵美は元いじめられっ子でございます。
インドア派の元いじめられっ子。
もちろん友達も少ない方です。

さあそんな私を自殺の誘惑から救ったのは?

それはもちろん、

ート

なんですよね~(-_- )シミジミ

アートに居場所を見た幼少期の話

さて、転勤族と言う逃れられない
よそ者属性を欲せずにしてゲットした
幼稚園年中さんの私。

子どもだから誰とでも友達になれる?

そんなわけあるわけなかろーよ!!(*_*;

運動が得意だったり
社交的な性格でなければ
当たり前にぽつんと教室の隅っこを
陣取ることになります(=_=)=3

さて皆さんに聞いてみましょう。

一人遊びで
もっとも安全に
誰の気を害することなく
長い時間をつぶせる遊び。

何が思い浮かびます?
私は1択でございました(・∀・)

そう、
それは、

お絵かき!!

外遊びは地方ルールがわからねば
ルール違反を徹底的に責められます。
積み木は他の子に奪われます。
折り紙はきれいに折れない上に
きれいなやつは奪われて破られる。

そんな弱肉強食理不尽社会幼稚園で、
お絵かきの紙 だけは 破られるのを
先生が阻止してくれるんですよね(・∀・)

幼児の折り紙なんてぐっしゃぐしゃですしね、
ゴミか何か解らなくて守れないんだと思います。

その点お絵かきはいいですよ?
何描いても褒めてもらえます。
丸しかかけてなくても褒めてもらえる。
失敗を誰かに怒られることもない。

この

絵を描くとほめてもらえる(≧▽≦)

魔法は絵の上手と下手が明確になる
中学生まで絶大な効力を発揮してくれました。

そして少女漫画でよくある
クラスメイトに絵を破られる(;´Д`)
ような精神的にくるいじめ
に遭わなかったのもまた、
私がアートに居場所を見た理由だと思います。

絵が下手であることを自覚していた中学時代

 

理解ある両親の元、

小学校の頃から絵画教室に通っていた私。

たびたび子ども向けの公募に出しては

金賞だとか銅賞だとか奨励賞だとか

まあなんかいろいろ賞をもらっておりました。

ですが私は知っていたのです。

 

そもそも敵が軟弱であることを!!

 

お絵かき教室なんかに通わせてくれる両親です。

たくさん美術館に連れて行ってくれました。

一流を見慣れればわかります。

公募に送られてくる子どもの絵で、

後世に名を残すような画家の卵なんぞ、

一握りすらいない

ことは一目で理解できておりました。

そして自分もまた、

その他大勢の「絵が好きなだけの奴」に

分類されることも重々承知できておりました。

自分の顔を描いても、

写真ほどの精巧さなど

一生かけてもたどり着けまい

と軽く絶望する程度には

筆の扱いも鉛筆の使い方も下手でした。

 

だけど私はアートから逃げられなかったのです。

だって、

体育もお勉強も、お友達と遊ぶのも、

好きじゃなかったんですもの(´・ω・`)

 

なので、勝負するポイントを変えたのです。

絵は巧い奴など山のようにいる!

私はピカソのような画力は一生持てないが

岡本太郎のような情熱だけは持っている!!

 

情熱を、描こう!!( ✧Д✧) カッ!!

 

そして夏の終わりに締め切りが来る、

 

富山県青少年美術展

 

と言う、中学生から大学生までの公募展で

50号の油彩を抽象画で出品。

 

中学1年時には奨励賞

中学2年時には銅賞。

受験に入った中学3年時には入選。

 

を得ることができました。

 

芸術の街をうたう富山県で

一番大きな子供向けの公募展での受賞は

 

やっぱりアートは技巧ではないんだ!

 

と言う発見を私にもたらしてくれました。

 

でへへ、自慢話でごめんね(*ノωノ)

 

画塾に通い詰めた高校時代

絵が下手なことを自覚していた私。

それでも一番好きなのはやはり絵画、

画家は無理でも美術教師になりたい!

と教職のある美術大学を目指すことにしました。

 

普通の美大受験生は高校3年くらいになってから

慌てて画塾の門をたたくのですが、

親に頼み込み高校1年生から

学校にほど近い老舗の画塾に通い始めました。

 

この時代ほど

 

が嫌いなった

 

ことはないです。

 

何せ下手なんです。

下手な人間が時間をかけて学んで得る画力と、

天性のセンスのある人のデッサンには

天と地との差があります。

ですが大学受験はデッサン必須。

下手な奴は門前払いを受ける、それが大学。

べそべそしながら勉強しました。

 

それでもこの時代があったからこそ、

 

最低限の画力は訓練で

に着けることができる!!

 

ことを実感しました。

どんな下手な人でもね、

3年間デッサンで

ティッシュ箱とトイレットペーパーと瓶

あたりを一生懸命描いてたら

なんとなぁく遠近とか形のとり方とか反射とかを

アルミホイルと紙風船と野菜とタオル

などを描いてたら質感とか空気感とかね、

ちょっとはわかってくると思います。

巧くなりたい人はがんばってください(^^)/

デッサンは、任せた!!ε≡≡ヘ( ´Д`)ノ

 

ガラスアートと出会った大学時代

第一志望の公立には落ちたけれど、

教職に強い美術系の大学、

 

近畿大学文芸学部芸術学科造形芸術コース

 

に無事入学を果たした私。

私立で両親にマジ申し訳ない((+_+))

とプルプルしながら

通わせていただきました。

 

近畿大学の強みは何と言っても

 

総合大学であること!

 

普通の美大芸大は入学時点で

油彩コース☆だとか日本画コース☆

デザイン学科☆建築学科☆版画科☆

とまあ細分化されて入学するのですが

近畿大学は

1年時に4種類のゼミを選択し、

2年時に2種類のゼミに絞り込み、

3年以降1つのゼミに打ち込む

と言うスタイルをとっています。

 

私が1年でえらんだのは

手慣れた油彩ゼミ、

絵画の延長の版画ゼミ、

変なものが作れる陶芸オブジェゼミ、

 

そして大学でしか学びようがないこと盛り沢山の

 

ガラス造形ゼミ

 

を選択しました(・∀・)

私のキラピカ☆大好きカラス気質は

間違いなくこの時代に育まれましたね。

いっぱい勉強させてもらったので、

詳しいことはおいおい記事にして

還元させてもらいたいと思います(`・ω・´)

 

やー、しかし大学時代は

面白い発見でいっぱいでしたよ!!

版画ゼミでは

楮の木を煮るところから始める

紙漉きとかもさせてもらいました(・∀・)

 

とにかく近畿大学は、

ジャンルにこだわらずにトライする!

自由な発想で勝負!!

と言う

デッサンを極めたいわけじゃない私

にとって最高の美術系学校でした。

 

 

挫折した教職と1年の空白

 

 

しかし大学でゼミが楽しくとも、

将来のごはんに結び付く勉強か?と問われれば

疑問しか沸いてこないのも事実。

私は実習の入る大学3年の春までに、

教職のとれる座学の授業は

 

すべて優  (๑• ̀д•́ )✧+°ドヤッ.

 

で終わらせていました。

いじめられっ子だった私、

教職につけたなら

子どもを褒めまくる美術教師になる!!

と とても熱い情熱で取り組んでいたのです。

 

しかし、その目標は

教育実習の前に実施される介護実習にて

粉々に打ち砕かれることになりました。

 

個人情報の観点から詳しくは言えませんが、

私はこの実習後、

四六時中手足の震えが止まらないという

謎の症状に見舞われ

食欲も落ち、最終的にうつ病と診断を受け、

一年間大学を休学することになりました。

 

 

今思えばあれはうつ病ではなく

適応障害だとかパニック症状だとかに

分類される状態だったと思うのですが、

このブログを鬱日記にするわけにはいかないので

この辺の話はざっくりと割愛

させていただきますね(;^ω^)

 

混乱の淵から生還させたのはやはりアートだった

 

 

さて、

寝れない&食べれない&大学いけない

安定収入への目標もぽっきり折れた、当時の私。

 

本当まあよくぞ大学に復帰できたなあと思います。

支えてくれた家族と友人に心から感謝です。

 

混乱の渦に溺れる私は、

休学中ひたすら絵を描いて過ごしていました。

折れる鉛筆、割れる筆なんて使えません。

コピー用紙にボールペンでぐりぐりと

無心に線を引き、面を追いかけていました。

 

当時の絵はこんな感じ↓

 

描いているうちに、ひっそり気が付いたこと。

私は本当は教職に就きたかったわけじゃない。

確かに情熱も持って教職を勉強をしていたけれど。

 

画家になりたかったのだ

 

と言う本音に出遭いました。

だから、

教職に就けなくなったくらい、

いいじゃあないか。

私は画家になりたいんだから

四六時中飽きもせず絵を描いていられる自分の

本来の適性を見つめなおし、

 

アートをしたい!!

 

と現実世界へと復帰していったのです。

 

 

就職難の中、就けた職場は文具・画材屋店!!

さてはて、大学を復帰した私を待っていたのは

リーマンショック後の大不況!!

就職氷河期でございました。

 

今の自分が画家で食べていくのは不可能だ、

と中学生の時点で気が付いていた私。

通っていた絵画教室の先生、

日展作家だという大学の教授、

肩書の一つが画家なんであって

画家業で食べてる人になんて

あったこともない人生。

それでもどうにかして

肩書の一つに画家を滑り込ませるためには

まず生活費と税金と画材費を手に入れなければ、

と言う基本の問題にぶち当たりました。

しかして安定収入の教職を諦めた私、

残る情熱の大半はアートにしか残っていません。

なのに社会に対して自分に価値ある知識

体験など売り込めるものなど何もない(=_=)

と病気復帰すぐの私は

お祈りメールを貰うことすら耐えがたく、

3件しか申し込みをせず、

ちゃんと試験まで赴いたのはたったの2件!

でございました。

 

そのうちの1件、

自宅より徒歩7分と言う立地の

一族経営+αな街の文具画材店で

面接のみで採用されました。

張り紙でしかアルバイト募集を

しないような小さなお店です。

あの頃は、仕事を見つけられた、

それだけで

一生の運を使い切ったのでは(;´・ω・)

と言われるくらい仕事が無い時代だったので、

そこの内定をとって

すぐに就活はやめてしまいました(;^ω^)

 

仲間が圧迫面接で拒食症に陥ったり、

就いてすぐあまりの過酷さに鬱になったり、

散々な目に遭っているのを目の当たりにし、

身の無い時間に心をすり減らすより

 

大学で過ごす最後の一年

 

に全力投球を決めたかったのです。

おかげさまで大学での創作活動は

とても幸せに終えることができました。

 

しかし今思えば、

業種はともかく会社は

もうちょっと選ぶべきだった((+_+))

と後悔しきりです。

 

画材の知識、文具の知識、客商売の基本、

額の選び方……

 

卒業後約4年働いて得た知識は

確かに私の糧となりました。

 

ですがどれほど画材文具が好きだとしても、

もう!二度と!

文具画材店で働くという

想像すらできないほど

私はばっきり(@_@)と

長年のパワハラにより自我を折られ

再びの混乱の渦に落とされました。

 

 

2度目の特大精神疾患からの復帰は、

やはりアートの力が絶大だった話

 

いまだに辞めたころの記憶はあやふやで

傷は生のままなのですが、

辞めて半年間、

私は再びお絵かきに没頭しておりました。

 

実は大学時代から画材屋時代中ちょいちょい

地元の手作り市なんかにも出ていた実績があり、

ニートになってから初の社会復帰は

母の伝手からの

町おこしの手作り市出店となりました。

 

絵は野外なので安全面から諦め、

学生時代に作り溜めたガラスアートと

少しばかりの最近の小物を足して

いざ出陣!(*’▽’)

 

しかしてうらぶれた歩道橋の下、

もちろん人通りなどほぼ皆無(;^ω^)

 

それでも私は自分の持ちうるスキルをすべてを

使って 5千円 売り上げましたヾ(*´∀`*)ノ

今日は一つも売れなかったよー(;^ω^)

なんて言う出店者が多い中、大変な快挙。

そして私は

この街にはガラス教室はあるけれど、

通いたいと思える教室が無い人

が意外と多いということを知りました。

 

個人のガラス教室なら

何とか食べていけるかもしれない(ΦωΦ)

 

と 諦めたはずの教職と

アートを愛してやまない自分と祖語の無い仕事

を発見!!

 

大変実りの多い体験となりました。

 

向いていないことは頑張れない話

 

個人ガラス教室の先生になる!

という新たな希望は見たけれど

資金や顧客募集方法など問題は山積((+_+))

特に資金面はニートの当時、急務でありました。

 

働きたくないでござる!!(ノД`)・゜・。

 

と泣き叫ぶ本音さんをなだめすかし、

留守家庭児童準支援員 という

放課後の共働き家庭の子どもを預かるアルバイト

を始めました。

 

こどもたちから、先生!

と呼ばれるのはこそばゆく、

教職に就いた自分を想像させてもらいました

 

しかし、就職した地方自治体が駄目でした。

守秘義務があるのでやっぱり言えませんが、

命を預かるには私はあまりに無力!!

保育士さんや保健士さんのなんと尊いことか!

自分が背負えない責任から逃げるように

たった半年、最初の契約期間満了をもって

再び私はニートへと逆戻りしてしまいました。

 

やはり、

向いていないことはお金のためであっても

どうあがいても頑張る気力すら持てない

ことをしっかりとお勉強させていただきました。

 

 

拾ってくれる神様は努力できる人が好きな話

 

しかしこの半年のアルバイト期間

私は2つのことにチャレンジをしていました。

 

1つ目は

関西最大級のアートマーケットへの出展

です。

 

 

出したのはインテックス大阪で開かれた

アートダイブ#11

という大型イベント。

地元から少し離れ

屋根と壁のある 絵を飾れる お祭り

に参加しました。

出展料は壁2枚+もろもろ費用で

合計で10万円!!(_××)_=3

 

しかし地元に友達など数えるほどしかいない私。

集客をイベント会場が担ってくれるならば

個展をするより絶対に多くのチャンスがある!!

と信じて

ニート期間に書き溜めた絵とガラスアートを手に

いざ出陣!(; ・`д・´)

 

個性的としか言いようがない抽象画が目を引いたのか

3件の大手企業の名刺をGET!!(◎_◎;)

さらに号5千円だなんて言う

会場の絵画作品の相場の5倍以上の値付けだったのに

親戚でも友達でもない、

お世辞ではなく作品が素敵だと言ってもらえる人に

SMホールを2点、F3サイズを1点

買い上げてもらえたのです!!

 

利用先があるタイプのガラスアートと違って

飾るだけの絵画作品を売ったのは今回が初めて(◎_◎;)

今後絶対名を上げて

作品の価値を上げていくから!!(`・ω・´)ノ

とずいぶんと強気なお約束をして

幸せなお祭り会場を後にしました(*ノωノ)

 

2つ目のチャレンジは

やはり登竜門と言うべき公募展!

 

絵の価値を上げると約束してしまった私。

とにかく箔を付けなければなりません。

抽象画を受け付けてくれる

集客度の高い公募展はほとんど

100号以上とか横10mの作品募集だなんて

空間的に無茶な条件が多いんです(_××)_

そんな中、F10までという小作品募集だった

 

近代美術協会主催の春季展

ポテトチップス主催のアートムーブ展

 

の二つにトライ( ✧Д✧) カッ!!

 

結果は な、なんと(; ・`д・´)

 

アートムーブ展は3点送ったうち1点が入選!

春季展では新人優秀賞を受賞!!

 

この自己紹介文を書いている現在

アートムーブ展の会期はまだ来月なので

何を学んだとか上手にまとめられませんが、

 

私はやっぱり画家になりたい!

 

と ハローワークも教えてくれない(;^ω^)

画家への就職希望熱を

さらに加熱してしまいました(;^ω^)

 

このブログ開講に至った理由

 

私が画家として生計を立てるために

賞は賞で必要だけれど、

一番必要なのはやっぱり知名度!!

 

公募展の開催記念パーティーで

同じくアートを愛する人とお話してきた私。

ブログとかSNSとかは必須アイテムだろうなと

ぼんやりと把握したんです。

 

でも、待って?

絵だけ載せてたって誰がどうやって

検索で引き当ててくれるんだろう(。´・ω・)?

 

知らないものは探せない、

しかし知ってもらうためのブログって

どうやって作るの??

 

私の絵は情熱だけを詰めた抽象画。

風景画や人物画で使われるテクニックのように

語るべき技法などないのです(;^ω^)

 

誰もが知っている単語がたくさん載ってる

誰かは知りたいだろうことが書いてある

そんなブログにしないと私までたどり着けない!

と思い至った私。

 

いままでどうやって

見知らぬ人と仲良くなってきたのか

よおおおおく、考えてみました(。-`ω-)

 

そうです、

 

私はガラスアートで手作り市に参加して

お友達を作ってきた人間(・∀・)!

 

個人ガラス教室なら食べていけるかも?

とまで思っていたのです。

対面式の教室を開くことばかり考えていたけれど

ブログに大学時代に得た

ガラスアートの知識や技法について書けば

私を評価してくれる誰かが

私にたどり着いてくれるんじゃないだろうか?

 

それに機材に乏しくなった大学卒業後でも

ガラスアートはずっと趣味で続けてきたこと。

趣味仲間ができたら絶対楽しい!!

 

そうだ、趣味は人生の、要だ!!( ✧Д✧) カッ!!

 

留守家庭児童準支援員を辞めちゃった現在

私の肩書は、この

キラピカ☆ガラスアートクラブ部長(自称)のみ。

 

楽しく!かわいいは正義!

お家で楽しむ趣味のキラピカなガラスアート☆

 

をモットーに!

これから更新頑張っていきますので!!

どうぞよろしくお願いいたしますね(≧▽≦)

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